城址

田丸城址

直前のアクセス路が道路工事により通行止め。住宅街の狭路を大回りし、町役場の側から城山を上る。駐車場の対面にある中学校は三の丸の跡地とのコト。石垣高いな…。主な城主は信長の次男、織田信雄。立場上、資金は潤沢だったのか? 広い城域を進みつつ、一の丸跡で東側を望むと、遠く伊勢湾が見通せた。




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刈屋城祉

古本屋へ向かっていた途中、偶然発見。何の予備知識も無く「説明文」読んだら、歴史的に重要な城だった…。この城で徳川家康の生母、於大の方が生まれたとのコト。この城が無ければ、今の日本は全然「別物」かも? 開国後、この地は士族さんが買い上げ、社交場として利用されていたらしいが、戦中は高射砲台に使われたと書いてある。現在は日当たりの良さそうな建物が建っていて、「何」なのかは近くに行ってみたが、よくわからなかった。



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岩切城址

夕暮れ時、渋滞の激しい県道35号を日の傾きにヒヤヒヤしながら到着。案内板には見学時間として「午後5時まで」と示されていて、5分前なのだが、特に施錠されるような門もないので、急坂を登る。自然の産物かも知れんが、なんと言う堀の深さ…。息切れと、うっすら発汗した頃合いで、本丸跡に着く。眺望が素晴らしく、仙台の町並みが見渡せる。特に案内板とかも無いが、桜の古木が時間的に余裕の無い訪問者を迎えてくれた。



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九戸城址

ハナシがややこしくなるのを承知で書くと、現在の二戸市に存在している。ついでに、「福岡城」と呼ばれていた時代もあるらしい。歴史的には、秀吉の全国統一の最終過程で悲劇をみた城となっている。早朝、駐車スペースには、相模ナンバーのクルマが止まっており、見学を終えた人が、帰途につく直前だった。駐車場からの見学コースは2本有るようだが、大手門への道が工事中につき、大周りの二の丸搦め手へのコースを歩く。が、結構な距離。つまり広い。まぁ、庶民と御殿様との関係からすれば、安易な階段を作って、本丸直行よりは、より相応しい。搦め手門に着くと一部ビニールシートに覆われ、何かの発掘調査が行われていた。風が吹くと、そばの樫の木からドングリがパラパラ落っこちるのだが、「撮影禁止」の紙が下がっていたので周囲の撮影は遠慮する。二の丸敷地と本丸との間に深い堀が有り、鉄板の橋がかかっている。それを渡ると、広い本丸の敷地で、本丸の有った位置も特定されていた(城域の中心付近)。近くにも堀が有り、石塁が見えるのだが、これは悲劇のあと入城した、蒲生氏によって築かれたとのこと。一通り眺めて、帰りは大手門側から住宅地を通ってクルマに戻る。途中に有った「町内会」の掲示板に三の丸町内会と書かれていて、歴史を感じさせると共に、何処へでも家を建ててしまう、昔の人々に思いをはせる…。



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脇本城址

男鹿半島の付け根にある山城跡。国道から菅原神社横の急坂道をクルマで上ると、無人の案内所と駐車スペースが現れる。案内所でパンフレットを頂戴し、しばし登ると広大な城址へたどり着く。が、左右の高台、パンフにも案内板にも、どこが本丸跡か記されていない。見た目、土塁だけで石垣が無いのだから、特定できてないのか? あるいは居住区画としての「舘」だけだったとも考えられる。これほど不確定要素が多いのは、上方から見れば「最果て」渡島半島も支配していた安東氏故に文献が乏しいのだろうか? 北前船により、最低限の下地は備わっていたはずなのだが…。
まぁ、見晴らしの素晴らしいところだ。


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出羽小国城祉


不意に4連休となったので、東北方面へ城攻めに向かう。ひと城めは出羽小国城。同名の城が複数存在するので、「温海町 小国城」と、鶴岡市に合併前の町名とともに検索する必要がある。そもそも、海からだいぶ離れた、山の中になんで城跡と、疑問が有ったが、昔は「出羽街道」が山側を通じていて、ココが要衝の地であったらしい。歴史を感じさせる小国の集落入口に関所跡の看板を発見。が、肝心の城跡に関する案内が無い…。駐車場の入り口は防火倉庫の壁に小さくあるので、目を凝らさないと(笑)。朝7:00、攻城開始。まず、攻め手の雑兵を待ち受けるのは、行動力を低下させる「蜘蛛の巣攻撃」。結構な急坂を朝露に足元を滑らせながら、拾った松の枝を振り回して突進する。ちなみに本丸までは1キロ強。多少の汗を浮かべつつ「馬返し」までたどり着いた。一応、現代の仮想城主は、直前の峠越えで目撃してしまったツキノワグマかなぁ…。普通はマムシが最大の敵なんだけど、今日は違う生物にビクビクだ。そんな直後、直近でキジが飛び出して、血の気が引いたのか 血圧が200越えしたのか、どっちでも良いが、残り少ない寿命がさらに縮まった感が。なんとか登り切った本丸跡は、草も刈られることなく、400年の歳月をかけ、山に戻りつつあった。下山後、雑兵が得た戦利品は、ジーンズにくっ付いた、なんかの雑草の種だけだった。




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天神山城

今回の旅、最後の城攻めは備前天神山城(現・和気町)だ。
この城も直接の案内に乏しく、唯一確認できたのは、吉井川沿いの国道374号線から見えた看板だけで、健脚な人は、そこから遊歩道(登山道)を歩くかもしれない。が、登山を封印してる筆者は、地図とカーナビを駆使して、なんとか高度を稼ごうとする悪あがき。すると「和気美しい森」というキャンプ場への道を辿ると、ほぼ山頂に到達できる事が判った。早速キャンプ場(正月明けで無人…)を通り抜け、遊歩道を歩くこと数分で遺構が現る。まずはうっすら残る空掘で、つぎが軍用石(単に大きな岩が有るだけだが、上って来た攻め手を攻撃する為に用意したとも言える)、そして本丸跡となる。ただ、この本丸、付近の案内板の情報が錯綜していて、年代の古い太鼓丸城本丸なのか、新規本丸跡なのか判別ができなかった。日ぐれ間近で雨も落ちてきそうなので早々に退却した。帰ってから確認したところ、筆者が辿り着いたのは太鼓丸城本丸で、新たに築城された本丸は、峰を一度下った先とのことだった。まぁ、周辺を眺められたことで満足。



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城井谷城(城井ノ上城)

実は、先週K氏と会食する前にやって来たのだが、雨で遊歩道が「川」になってて、撤退した経緯有り。日を置いて再度攻城戦に挑むと、川になってた表門(写真の岩が乗ってる洞窟入口みたいなトコ)が通行できた。そのまま上へ進むと、石積みの跡らしき遺構の先が開けた。周りを高い峰に囲まれたこの地が、城跡らしい。確かに、最高所に本丸を構えるのも手だが、平時を考えればこれもアリだ。周りを見渡し、どこか山の上に砦の跡でもないか見てみたが、山の上に「大岩」が乗った様な峰ばかりで、反対側から攻め込むのすら困難に思われた。この城の主だった宇都宮氏は某軍師の計略に嵌り、滅亡したとのコト…。


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日野江城

近世宇土城に引き続きキリシタン大名、有馬氏の居城跡を元旦早朝から訪れる。
直前まで案内板も無く、地元としては、それほど観光資源になると思っていないらしい。駐車場から階段を上がっていくと、イノシシ除けのフェンスがお出迎え。通過後しっかり締めてから先へ進む。現れたのは石積みと階段跡。説明板によると、階段に使われていた石は、墓石とのコト。こちらのキリシタン大名も、異教となれば仏といえど扱いが冷たかったらしい。さらに上へ進むと「立ち入り禁止」の札と崖崩れ。本丸に進む傾斜が見事に崩れ、ブルーシートに覆われた状態。多分、国とかの史跡指定がされてて、迂闊に修繕するのも叶わないのではないか? 筆者は迂回路を何とか探し出し、別ルートで上へ…。本丸跡からは有明海の眺望が広がっていた。





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宇土城址(中世・近世)

初め、カーナビの道案内に反して、反対方向への案内板が出てたので、そっちに従ったのだが、新・旧の二城が500m位間を置いて有ったことがやがて判る。案内板に従った先は、墓地…。隣接した高台の奥手には小西行長の像が立っている。この地は、キリシタン大名が築城した新しい方だ。
改めて中世宇土城へ。こちらの方が明らかに広大で、高所だ。案内板を見ると、発掘等の遺跡調査のより、廃城の経緯までは定かでないが、埋められた堀が見つかり、もともと城にあった宝塔や墓石が見つかったらしい。なんでも、これらを使って堀を埋めるというのは「懲罰」の意味合いが強いらしく、小西行長が、佐々成政あるいは「神仏」に対して何らかの意思をもって、廃城したのだと思う。
ただ、時代は流れ、キリシタン大名の城跡は墓地の一角と化し、そして、その墓地の墓石は、地震の影響で一部、倒れたまま放置されている…。




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