戦国時代

高天神城

静岡までスクーターで出張ってきたのだが、いろいろ予定が狂い、到着したのが午後1時過ぎ、都内アジト帰着が夜9時と、12時間以上のライダー苦行となってしまった…(1号バイパスが自動車専用道で迂回したら渋滞どハマりとか)。
さて、到着してみると山城の全景がはっきり。偶然、搦め手門から戦闘開始したのだが、南門(大手門)側は、崩落で通行止めとの張り紙があったので、さらなる無駄ボネはしなくて済んだ。城跡の形状は、2つの頂に本丸と2の丸を配した縄張りで、さっそく東側の本丸の攻略に…。といっても、それほど高さはないので直に到着。崖が急で、よじ登って来ることすらできないと推測。一度、武田信玄25,000騎の包囲を持ちこたえているので、それなりに堅かったのだろう。が、その後武田勝頼20,000騎に攻められ、2か月程度戦った後、落城したとのこと。そのあと、西側の尾根に進み、2の丸跡に向かうと、ココを死守していた武将丸尾兄弟が、いずれも「狙撃」によって落命したとの記述に興味。騎馬集団の武田軍にも鉄砲の達人は存在したのかと、チョットした新たな発見。




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信貴山城址

お恥ずかしいハナシだが、某信長ゲームを何十年も遊んでいながら、漢字がひっくり返って「キシンザン」城と思い込んでいた(苦笑)。正確には「シギサン」城だと、現地を訪れて確認できたのは、高知の岡豊城以来だ。
実はこちらも美女湯温泉と同じく「再来」で、正月明けの初詣なのか…、駐車場が一杯で退散したリベンジ。今日はガラガラだった。さて、山頂付近の城址に向かって歩き出すが、周囲の神社仏閣の数が数えられないくらい乱立していて迷路状態。最高部の「空鉢堂」を目指すってコトが判明するまで30分くらいかかってしまった(トホホ)。まぁ、登ってしまえば空鉢堂の隣に(参道とは別の並行路を進むと)石碑だけの本丸跡(伝)が存在する。奈良(大和盆地)と河内方面、両方が見通せる山頂部、松永久秀でなくても一城築きたくなる場所だろうが、松永久秀に関しては一筆加えときたい人物。主君追い落としも将軍殺害も、現代の感覚からすれば「不義」に当たるだろうけど、当時は「何でもアリ」の戦国、機を見て実行し成功させたスゲー人なのは間違いない。



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山中城址

いつの間にか国道一号線にバイパス(トンネル)ができていて、駐車場の周囲は静かになっていた…。広大な城域を本丸方面に歩き出すと、直後、昨年の大雨の影響からか、盛り土が大きく崩れた所が目に入る。さらに進み、二の丸から西ノ丸方面の眺望の広がりと言ったら「スゲー」の一言。秀吉による「小田原仕置き」に対する前線基地としての規模は申し分ないのだが、守兵3千ほどで7万の軍勢には太刀打ちできんわな。そんな状況に追い込まれた北条氏政の先見性の無さが、北条氏の滅亡へと向かったのは事実だが、一応、血のつながりはないにしても、前北条氏や「東国武士」としての、意地の張り方だけは譲れなかったのかもしれない。




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大河 2周遅れ

世間一般があくせく働いている時に「旅」するのが、筆者の考える「旅人」像なので、大型連休は大人しく過ごす。つもりが、飽きてきたので近場へ出かける。たいがい翌年には土産物屋が閉店し、その次の年くらいには駐車場が草茫々…。大河主人公ゆかりの地への妄想は、連休に打ち砕かれ、龍潭寺駐車場はクルマが一杯。かろうじて「軽」の文字が書かれた小さめの一画が空いていて貧乏車万歳。最初は井伊家発祥の地、「共保公出生の井戸」へ向かう。田んぼの真ん中になぜ井戸が? という素朴な疑問は置いといて、初代共保がこのそばに「捨て」られていたのが井伊家の始まりとのこと。家紋にもなっている橘の木は、かなり新しめだ。続いて緑の深い龍潭寺へ。直虎と名乗る前、10台前半で髪を下して仏門に入り、修業していたお寺。ドラマでも小説でも、住職の南渓和尚を含めて重要施設だ。締めくくりは「井伊谷城址」。さすがにココは訪れてた人も2グループで、300mの登りを進むと涼しい風。南側には、建物こそ総替わりだが、昔のままの地形が…。遠くには浜名湖の一部も見通せた。




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延沢城址

延沢満重が最上義光の家臣となる前、豪族の頃に築城されたとされる。県道上の案内に従い坂道を上ると、そこは小学校の敷地だった…。関東圏なら不審者確定だが、駐車場が有るし、田舎なのでまぁ良いか。傍の「仮登城路」を登り始めるが、先は長そうだ…。結局、(推定)高低差100m強を20分以上かけて登り続けるが、足元にニョロニョロ系が潜んでいないかビクビクして、慎重にならざるをえない(苦笑)。やっと到着した一の丸跡には、推定樹齢が1,100年ほどという杉の大木が出迎えてくれた。クルマに戻った頃合い、ちょうど小学校では給食の時間帯であった。



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岩出山城址

青葉城に移る前の伊達政宗の居城。急坂を登り、C58の傍にクルマを止める。もっと上がれる感じもするが、最上部まで車で乗り付けたんじゃ、妄想攻城戦に浸れない? 歩き出して、ちょうど息が切れかける頃、一の丸跡に到着。そこには閉店して久しい土産物屋が有った。東側に進み、正宗像を眺める。後ろの説明書きには、元々青葉城に有った像をココに移管したとのコト。どうも仙台市側は、今有る馬に乗った「厳つい」正宗像をワザワザ制作して、既存の「平服」正宗像を岩出山に押し付けたらしい(笑)。眼帯はしてないが、右目をつむった正宗像は、温和な感じがして、これはこれで良いのでは?


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岡豊城址

戦のニオイがしない高知城などには目もくれず、コッチに関心が有ったまあさき。ツーリングマップルに載って無くて、何処だろうと「地名」は発見。県立歴史資料館ってのが有るので、ソコ行けば判るだろうと実際行ってみると、平地の小高い山と側を流れる国分川で、ナガネン城跡見てれば一発の地形。城跡の一部にデカい資料館を建築したみたいだ。早速高みを目指す。幅の狭い虎口がはっきり残っている。その先はとって付けたような「櫓」なので、今回はパス。遠く土佐湾まで見通せる高台。ここから長宗我部氏は四国統一を目論んでいたんだろう。一応資料館にも立ち寄る。内容的には入館料¥510を考えるとアレだが、1点…「岡豊城」は「オカトヨ」じゃなくて「オコウ城」と読むコトを知ったのが最大の発見だ(笑)。

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河後森城址

道の駅から出撃直後、案内板が目に入ってしまった。外すのが面倒なんで、手足のプロテクターを付けたままの城攻め…。何の予備知識も無いのは毎度のコトで、探索しながら知識習得。公式(?)な説明板の横にある地元小学生の研究発表みたいなボードが微笑ましい。けっこう広い城域で、整備も行き届いている。さて、この城だが、地域的に軟弱一条氏と強豪長宗我部氏、時には海側から西園寺氏が攻めてきたりする微妙な地域だったらしい。最終的には宇和島に伊達氏が赴き、その家臣の桑折氏が入城した後、一国一城で廃城になったとのこと。周囲の眺めも含めて良い史跡だ。


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純粋剣士

丸目長恵 像
道の駅「錦」(おー、山口県の他にも熊本にあった…)でチト目についた。筆者の限りなく偏った認識だと、某信長ゲームで「統率」高いが政治がダメで、経験値が稼ぎづらいキャラとして定着している。史実通り「師範」として使うのもアリだが「鷹狩」(?)ばっかやらせるのもネ(苦笑)。それは置いといて、裏の略歴に「上泉信綱に師事」とある。上州まで修行に来てたのだろうか? と、調べてみたら「上洛時」と有ったので、上泉信綱も京へは上っていたのだ(ある意味幕府(朝廷)公認の剣術だった)。

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秋月城址

昨年、城下の古い街並みにまではR2でやって来たのだが、商魂たくましい¥300の駐車料金にゲンナリして退散していた。今回はおもちゃバイクなんで、適当に駐輪もできるな…(笑)。案内に沿って門らしいトコまでやって来ると、案内板にはかつて大手門であった「瓦坂」とのコトだが、向こう側はありがちな中学校。更に進んだ「長屋門」から進むと中学校の校庭横へ。木造つくりの校舎がなんか新鮮だなぁ…。奥手に高台が有り、本丸跡かと思ったが、戦没慰霊碑が立っているだけで、説明板などは見当たらなかった。



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